昭和40年05月04日 朝の御理解



 昨日、吉井の熊谷さんのところの、謝恩祭、でから御霊様の式年祭を合わせておかげを頂きました。大変盛大なお祭りでしたが、あちらで頂きます御理解の中に、『一如法界・生身郡』という難しいですか、ご理解でした。それは、これは私りょ、流に理解付けさせて頂いたのでございますけれども、ほうかいというのは法の世界。言うならまぁ信心の世界。もうしょうしん、生身。私共の生身を持っておる。
 いわゆる、その、この世界という事だと思う。人間の世界(?)だと思う。それが一如。一つの如しと言うと。『一如法界・生身郡』ごおりとは郡と言う字書いちゃる。お互いが、こうして信心の稽古させて頂いておる。目指しを何処においてあるかと。それは、様々な難儀をお互いが持っとります。その難儀が解決のおかげ。ね、病気をしておる者はその病苦から、経済の、事で難儀をしておる者はその、経済苦から。
 様々な苦と言う苦。難儀と言う難儀の中から、どうかしておかげを頂きたいと。それを神様のお働き、神様の力におすがりして、おかげを受けたいというようなところから、お互いの信心が段々まぁ進められて来るわけでございます。もうそういうところから、また御神縁を頂く人が多いのございます。そしてそん、段々分からせて頂くということがです、本当この神様は、一心を持っておすがりさせてもらい。
 一心を持って、願うて行けばおかげが頂けれる神様の一つ、神の働きというものをです、神の権威にかけてでも、奇跡を見せる。という、仰るのでございますから、信心は分からんでもやはり、こちらがすがるという気になれば、見放した医者の、が見放したと言ったような病気が助かったり、どうにも、解決付きそうにもないような問題が、スムーズに、に解決のおかげになってまいりました。
 ほんと奇跡と言わなければおれんようなおかげが見せて頂けて。分からせてもろうて、なるほど、神様を認めんわけにはいかん。これは信心の、おかげを頂かせてもろうて、いよいよ本当の幸せを頂かせて頂こうというのが皆の願い。ですから本当の意味でそのにです、そういう信心によってでなからなければ頂けない幸せを頂くためのそこへ、焦点が置かれなければいけないという事。
 自分の願い事をした1事2事解決したからというて。成就したからというて、人間が幸せになると言うことは出来ないということ。それには、例えばなら皆さんがです、例えば朝の御祈念にこうやってお参りになってですよ。おご祈念はなさる、その後こうして御理解を頂きなさる。頂けば頂くほど、一生懸命祈念をさせて頂けば頂くほど、確かにその、雰囲気というかその、あのう、心の中に感ずる有り難いというものはです。
 普通とは違う。そして、心の中に合点がいく。なるほど、なるほどと言う合点がいく。心の中に、昨日の朝の御理解じゃないけれども。信心の喜びの芽が出る。そして、おかげと言う花が咲く。そして、それが実りにならなければ、という昨日の朝の御理解でしたですね。その実りにならせて頂くところのおかげを頂けた時、初めて人間の幸せがあるのである、という事。
 天地の信用、神様のご信用をうけさせてもらう。それをご神徳というんです。そのご神徳の世界。御神徳、御神徳の世界に私共がです、ね、それなるほど、理屈言えば神徳の世界には私共生きておるのである、ね。お互いが『疑いを離れて真のお道を開きみよ、我が身は神徳の中に生かされてある』と言う神徳の中に確かに生かされてあるんだけれども、不安である心配である。
 昨日、ここにお届け、今朝もしてありますが、かんざわ敬人と。敬う人と書いてある。神は神様の神。もう70いつくのこの人は、高利貸しをされる方。内田さんの現在の家の家主さんである。ん、それでもなかなか分かった人。その人がガンのためにもう今度は難しかろうという、重態のとこについておられる。それ聞かれてからお見舞いに行かれた。もういよいよ内田さん、今度は私は助かりきるまいごたる。
 子供さんがござらん、それで後々の者にこうやってこれとこれをゆずって行かんならん。あんたんところの子供、どうぞよろしゅうお願いしますと言うて、まぁ遺言のような、お話があった。そん力を落とされずに、まぁしっかり元気を出して下さい。と帰ったもののやはりもう本当に難しかろう、とまぁ内田さんも感じて帰ってからのお届けである。お届け終わって、させて頂いておったら、私がね頂きますことがです。
 「すがれば、助けたいのが一心」と神様のお知らせでした。神様はもう、氏子助けたいの一心でおありになるということなのです。ね、でもすがっとからなければ出来んじゃないかと。助けて頂きたい、という願いを持てばです、もう助けたいのが一心なのだと。神様はそこ一心に、せまっておられる。私共が助かるために一心。助けたいの一心。ここんところになるほど奇跡が頂けると言う事を感じるです。
 これで内田さんも、早速、おその、ま一遍やらせて頂いて、御神米を持って行きなさい。ね、そしてそんな力を落とさずに、神様は助けて下さると仰るのだから、ひとつすがる気になりなさいというて、昨日やらせて頂いた。もう大変な喜びだったそうです。そうでしょうね、そういうような時に、医者からも見放されて、しかも後のことを見れるという子供さんもないと言ったような、お金はそれこそ沢山なも、持っちゃるに違いないですね。高利貸しでもなさるくらいですから。
 それこそ信心のしの字もある方ではないらしいんですけれども、やはりいよいよの時になってみると、そういう事。人の情けが身にしみるという時でしょう。神様が助けたい一心でおありになるのでございますから、私共がやはり助かりたい一心にならなければいけない。んな、その助かりとはどういうことを持って助かりと言うのかと。ね、私共が一事二事助けて頂いたから、それで助かるという事ではないという事。ね、
 自分の今の難儀から、言わば、道が開けた、治ったというおかげを頂いたからと言うて、ね、これを境から解説するという事ではないという事。それは、私共が、いつもこの神様が助けたい一心のお方であるという事を先ず知らなければいけない。それをここでは一切が神愛という事なのです。ん。そして皆さんがですたい、お前はそれで御理解を頂かれてなるほどと。心の中に喜びを感じられる。
 拝まして頂きながらです心の中に安らぎを頂きなさる。その安らぎがその喜びがですね、身になりそれがおかげの花になり、それが実りというおかげを頂かせてもらう時です、本当のいわゆるおかげ神の願いのおかげであり、私共のまた切に願うおかげが一つになる。御祈念もしておられる時も御理解を頂いておられる時もです、その安らぎもその喜びもです、私共の日常生活の上に持ち込まれていかなかればならないという事。
 椛目を出る時には、そうだけれども家庭に帰ったらそうはない。そういう、別々のものであってはならない。一つの如しと。一つのものだと。そういう、いうような事、だと思うのですね。『一如法界・生身郡』と。だからお互いがです、そこを目指しませんとです、本気な信心は出来んと思うですね。そこを頂きたいという願いです。昨日私、ここで奉仕させて頂いておる時に、頂きますことは、ちょ、ちょっとそのおまえの空間、間にです、すぐ頂きますことが、『他力本願』という事を頂くんです。ね、
 仏教で申しますでしょうが、自力とか他力とか。私共はその他力というような事を、まぁ浅い意味合いでは分かっておった、私共も、私も知らなかった。ね、『他力本願』他力本願じゃいかんばい、自分の信心もせんな、(ただのさん?)がどうかして下さるじゃろうと。他力本願じゃいかんよ、と言ったようなんな事をそういうような場合に使うですね。言わば、人に他に、他の者にただ頼っとるだけ。
 そういう他力本願じゃいかんと、これは信心のない、と、信心のない者、言葉の中にもそのような事使いますですね。自分がやろうとせずに、いわゆる他力、他の力だけを頼りにしておると言ったようなことではいけないという事。その他力本願という事がですね、そういう浅はかなものではないという事、ね。それで、さすがにお釈迦様のことですから、たいした事だろうと私は思うんです。
 そしてそのご理解を頂かせて頂きながら、ははぁ私はおかげを頂いてから他力本願でおかげを頂いておるなと言う事をいよいよ有り難いと感じたんです。皆さんどういうことだと思われます。ただ今申しますですね、ご神前にあろうが、自分の、職場にあろうが、ね、言わばご神前で感ずるようなご理解を頂かせて頂いて、心が開けた時、そうであったとこう、心に安らぎを感じた、喜びを感じたりすと、それと同じ心。
 して、今まで難儀と感じておったその問題が難儀ではないと分からせて頂けた時。法の世界も、生身を持っとる人間の世界も一つであるというようなところに、私共の心がおかげを蒙った時です、私は本当の意味での『他力本願』というのは分かるのじゃならろうか、とこう思う。私共が、例えば難儀があれば痛い痒いの事に、から、ね、心の状態のことから、神様におすがりをするのである。
 そこでそんなら、私自身のことを思うてみる。なら、なら私共の痛い痒いの事から、願わなければおれんのであり、すがらなければおれんのであるという事。現在真実、私の2番目の娘の愛子と言いますがね、私の代参で親教会にお参りさせて頂いた。丁度あの、入口のところに着いた時に向こうから自動車がやって来てよけよってから、自動車がよ、自分のとこバー、と来たもんだから自転車倒してから。
 そん時その足をまぁどうしたか分かりません、ひびが入ったのかどうか、そのう骨折か何か分からん。こりゃ素人のことですから、そのレントゲンかけて見たわけじゃないから。けども、それも大変な痛み。ずっと冷やしどうしに冷やして。あん現在でもまぁおかげで大分痛みが取れたと言っておりますけれども、あの力入れられない。ちんがちんがしております。あれ達のことはやはり願わなければおられません。
 ところがんなら私の心の中にはです、ね、すがらなければおられんのでは、願わなければおられんのだけれども、ね、よしその時に片わになったり、ちんばになったという難儀になったり、心配になるようなことがあってもです、それがおかげと悟る世界なのです。『他力本願』というのは。もうちんばんどんなっちゃならん。ね、娘が例えばちんがちんがするごつなっちゃ、その不幸せを、と言うような親ではなくてです、ちんばになればちんばになったで、かえっておかげになる事を信じると言うことなんです。
 目が見えなくなったらです、目が見えなくなったそこからです、ね、かいって目が開いておった時よりも、かいっておかげになるという事を信ずるということなんです。もっとそれを厳しく言うならばです、よしその事によって死ぬるというような事でありましてもです、ね、死ぬると言う事は人間の最大の悲しみでもあろうけれども、その悲しみの向こうには必ず、よりおかげの道が開けると言うことなんです。いわゆる、難はみかげとなるという事なんです。
 だからもう、難あって喜ばせて頂くところの境地なのです。ね、願ってのこと。右と願っておっても、結果においては左になっても、左にも、その事がです、(その事ぎ、そのこいろじゃない?)、そのこと事態がです、より神様のおかげを下さるための一心の働きであると分からせて頂くことなのです。素晴らしいでしょうが、このようなところになってまいります時に。そのに私は初めて、心が育ってまいってから初めて人間の助かりという幸せというのはあるんだと。
 右にならなければおかげではない、左にならなければおかげではない、というのじゃぁない。私どもは分かりません。凡夫ですから。だから、右がよかろうごとある、左がよかろうごとあるけれども、結果においてはその反対になってもです、それはかえってです。もうかえってではない、そのことはです、私共が願っておる以上のおかげであると悟る事なんです。これは、なら私自身の、信心の経歴と言うものをです、自分の信心というものを振り返って見て、それをいよいよ確信させて頂くのでございます。
 何かがある、問題がある。難儀がある。その時その難儀がと、解けることがおかげのように思うておったけれどもです、神様の願い一心に下さろうとする願いというものは、そんなもんではなかったという事。そして、そこを乗りこえなければ頂けないところの、をおかげ。境地。そこをおかげの世界と信ずること。それが確信できる事。それが、私は『一如法界・生身郡』という事だと私は思うのです。
 皆さんそういうようなですね、難かしゅう、言うならそういう難しいことを、を焦点において、焦点としてのお互いの信心であり、もっと言えば、私が日々こうして皆さんに聞いてもらっておるです、ね、本気で改まらせて頂こう、本気で磨かせて頂こうと。本気で限りなく美しゅうならせて頂こうと。ね、そういうようなところに焦点をおかせて頂く時に、自ずと湧いて来るのは何かと、それは光のように与えられるところの、心の喜び。その心の喜びを育てて行くということ。
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